日本版フェアユース成立過程との対比に見る違法ダウンロード刑罰化の異常さ。
0,導入
同法案には違法ダウンロード刑事罰化が潜り込んでいるが、違法ダウンロード刑事罰化の法案内容は政府提案の改正案ではない。政府提出の改正案を採決する直前に、自民党と公明党が刑事罰化を盛り込む修正案を提出し、修正案を含む改正案が可決された形になる。
違法ダウンロード刑事罰化は、自民党と公明党が推し進めたものだ。もちろん、民主党の側としても「消費税の増税案を通すため」という御題目のために「違法ダウンロード刑事罰化法案」の丸呑みをした点で責められるところが十二分にある。同時に、それを人質に刑事罰化を意地でも通した自公も責められよう。
さて、違法ダウンロード刑事罰化が政府提案の改正案ではない、と最初に書いたのには意味がある。つまり、今に至っては違法ダウンロード刑事罰化の日陰に隠れてはいるが、本来的に通そうとしていた著作権法改正案があったわけだ。
政府案では、
- いわゆる“写り込み”等に係る規定
- 国立国会図書館によるデジタル化資料の自動公衆送信に係る規定
- 公文書等の管理に関する法律に基づく利用に係る規定
- 技術的保護手段に係る規定
が含まれていた*1。
1,フェアユース規定の存在
ここで着目したいのは1の「いわゆる“写り込み”等に係る規定」だ。コレは何か。以前、『フェアユース』と呼ばれていたものだ。法案上の具体的内容を以下に見てみる。提出時の法案から引用したものだ。読み飛ばして構わない。
(付随対象著作物の利用)
第三十条の二 写真の撮影、録音又は録画(以下この項において「写真の撮影等」という。)の方法によつて著作物を創作するに当たつて、当該著作物(以下この条において「写真等著作物」という。)に係る写真の撮影等の対象とする事物又は音から分離することが困難であるため付随して対象となる事物又は音に係る他の著作物(当該写真等著作物における軽微な構成部分となるものに限る。以下この条において「付随対象著作物」という。)は、当該創作に伴つて複製又は翻案することができる。ただし、当該付随対象著作物の種類及び用途並びに当該複製又は翻案の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。
2 前項の規定により複製又は翻案された付随対象著作物は、同項に規定する写真等著作物の利用に伴つて利用することができる。ただし、当該付随対象著作物の種類及び用途並びに当該利用の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。
(検討の過程における利用)
第三十条の三 著作権者の許諾を得て、又は第六十七条第一項、第六十八条第一項若しくは第六十九条の規定による裁定を受けて著作物を利用しようとする者は、これらの利用についての検討の過程(当該許諾を得、又は当該裁定を受ける過程を含む。)における利用に供することを目的とする場合には、その必要と認められる限度において、当該著作物を利用することができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びに当該利用の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。
(技術の開発又は実用化のための試験の用に供するための利用)
第三十条の四 公表された著作物は、著作物の録音、録画その他の利用に係る技術の開発又は実用化のための試験の用に供する場合には、その必要と認められる限度において、利用することができる。
第三十一条の見出し中「複製」を「複製等」に改め、同条第一項中「この項」の下に「及び第三項」を加え、同項第一号中「全部」の下に「。第三項において同じ。」を加え、同項第三号中「図書館資料」の下に「(以下この条において「絶版等資料」という。)」を加え、同条第二項中「又は汚損を避けるため、当該原本」を「若しくは汚損を避けるために当該原本」に、「ための」を「ため、又は絶版等資料に係る著作物を次項の規定により自動公衆送信(送信可能化を含む。同項において同じ。)に用いるため、」に改め、同条に次の一項を加える。
相変わらず、条文自体を見ても意味がわからないことでお馴染みの著作権法らしい内容となっている。要するに3種類、
- 付随対象著作物の利用
- 検討の過程における利用
- 技術の開発又は実用化のための試験の用に供するための利用
細かいところは福井弁護士の説明に任せる*2として、これが「かつてフェアユースと呼ばれたもの」の成れの果てだ。
フェアユースとは何か。
著作権者の許諾なく著作物を利用しても、その利用が4つの判断基準のもとで公正な利用(フェアユース)に該当するものと評価されれば、その利用行為は著作権の侵害にあたらない。このことを「フェアユースの法理」とよぶことがある。
『権利制限の一般規定』とも言われる。ざっくり言うと、特定の事象に関わらず一般的にある要件を満たせば著作権者の許諾なく勝手に著作物を利用しても怒られない、ということ。「特定の事象に関わらず」というのが重要で、柔軟な運用が期待でき、法律制定時には予想もされなかった利用方法であっても、利用を制限されない可能性を担保できる*3。
翻って今回の法案に見られる「かつてフェアユースと呼ばれたもの」は、上記3点のみの利用を可能にしたに過ぎない。もはや「権利制限の一般規定」ではなく単なる『個別規定』でしかない。フェアユース導入の論議は、最終的に骨抜きになったと言える。
2,フェアユース規定成立への経緯
どのような経緯で骨抜きになったか。
発端は2008年に遡る。2008年4月に設置された「デジタル・ネット時代における知財制度専門調査会」において検討がなされた。その結果、同年11月には「権利制限の一般規定(フェアユース)を導入することが適当」とする報告書がまとめられた。
これを受けて、翌2009年に知的財産戦略本部決定として「知的財産推進計画2009」において「導入に向けて早急に措置を講ずる」こととなった。また、同年5月からは文化審議会著作権分科会における検討が開始されている。分科会では、法制問題小委員会の形で7〜9月の会合で関連団体・企業の担当者を招き、立法事実の有無や導入の必要性の有無についてヒアリングを実施している。また、これに関するパブリックコメントも募集して、結果として94の法人・個人から254通の意見が寄せられていたようだ。
さらに翌2010年には、権利者団体やコンテンツプロバイダーなど一般規定に関連のある団体や企業を対象に、追加のヒアリングを行い最終報告を取りまとめている。なお、法制問題小委員会ではワーキンググループにおいて大学教授、弁護士、法務省検事、裁判官などの中立的立場の識者を集めて検討を行なっていた。
ところが、同年2010年12月、文化審議会著作権分科会法制問題小委員会は最終的に権利制限の一般規定について、もはや一般規定と題目を建てるのは難しい程度に限定された最終まとめを公表した*4。ここに至って、知的財産戦略会議の提案とは裏腹にフェアユースが骨抜きにされることになった。
そして、このまとめに即した形で著作権法改正の政府案が作成、先日衆議院で可決された。
ここで重要なことはいくつかある。
- 概括的な計画の下、発案された
- 4年に渡る検討を繰り返してきた
- 中立的立場の識者による検討を行なってきた
- 権利者のみならず関係する団体や企業のヒアリングを行なってきた
- パブリックコメントを通じて国民の声に耳を傾ける態度を示した
といったところであろうか。
最終的に、骨抜きにされたことは、ここでは問題にしない。
3,違法ダウンロード刑罰化への経緯と対比
他方、自民公明がねじ込んで、可決させた「違法ダウンロードの刑事罰化」は、どのような経緯を辿ったか。
違法にアップロードされたコンテンツを、違法なアップロードだと知ってダウンロードすることが著作権侵害になったのは、2010年だ。ダウンロード違法化自体、喧々諤々の議論を得て法制化されている。今回は、それに刑事罰がついた形となる。
つまりたった2年で2年前には否定された刑罰化が実現されたわけだ。今回は、RIAJを始めとする音楽業界の権利者サイドが、杉良太郎を担ぎだして議員に直接大々的なロビーイング活動を行ったと言われている。
フェアユース規定との対比ではこうなる。
- 概括的な計画などの検討が国策レベルでされた実態はない
- 違法化から僅か2年、実質的なロビーイングは半年から1年程度
- 権利者サイドのロビーイングに基づき、権利者サイドの提出して違法ダウンロードの統計、並びに、権利者サイドが算出した発生損害額のみを拠り所にし、国や党や議員として自主的に統計並びに算出を行わなかった
- 中立的立場の識者や、利用者、関係する団体や企業へのヒアリングもない
- パブリックコメント募集などなく、権利者以外の声に耳を傾ける態度も示していない
この違法ダウンロードの刑罰化を主とする修正案、自民公明の発案に対して4月17日の民主党・文部科学部門会議では反対意見が多数占めたようで、このときは水際で食い止められた*5。自民公明が党レベルで決定した修正案を、民主党が潰した形になる。
5,〆
ここで示したように、違法ダウンロード刑罰化を巡る問題点というのは、小寺氏が指摘するような「議員立法だから」ということではない。
しかもこの改正は、議員立法で行なわれようとしている。国民の意見が反映されるチャンスはないのだ。権利者側は、タレントの杉良太郎氏を連れて議員を周り、オジチャンオバチャン議員を骨抜きにしている。そういうやり方で、効果があるかどうかわからないような法規制が行なわれて、日本という国は大丈夫なのか?
【特別寄稿】踏みにじられたユーザーの意見、暴走するダウンロード刑罰化 - 小寺信良(BLOGOS編集部) - BLOGOS(ブロゴス) -
『お前らもっとちゃんとよく考えろ!』
ということに尽きる。刑事罰化ですよ、今まで犯罪じゃなかったことが犯罪になるんですよ、下手したら犯罪者になって「2年以下の懲役または200万円以下の罰金」が科せられるわけですよ。ちゃんと検討しましたか? 多くの国民が突然牢屋に入れられる危険に晒されるようになるわけですが、それで「文化の発展に寄与する」んですか? 「文化の発展に寄与する」ってなんですか? ちゃんと検討しましたか?
つまりそういうことです。
*1:引用:DVDリッピング違法化+私的違法ダウンロード刑罰化法案、衆議院で可決 -INTERNET Watch -
*2:著作権法改正でこう変わる――DVDリッピング規制、元・日本版フェアユース -INTERNET Watch - (実際の法案は異なるところがあるようだ)
*3:例えば、PCのキャッシュや、googleの検索結果のサーバ保持など厳密に言えば著作権侵害だが、フェアユースがあれば権利侵害を問われない可能性があった
違法化前に損害がなかったというのは詭弁なのか屁理屈なのか。
前回の日記でこう書いた。
違法ダウンロードが著作権者の権利を侵害し続けていたというのはウソだ。損害を与え続けているというのもウソだ。ダウンロード違法化は、合法だったダウンロードを「権利侵害」にし、「損害」と法定させたから権利侵害であり損害になったのであり、違法化の前後を問わず本質的に権利を侵害し損害を与える行為だったわけではない。
これに対して、twitterでこういう質問をいただいた。
知識ないからアレだけど、合法だった=損害はなかったってのは、言葉の問題じゃないのかな?と。法的に損害はなく、経済的倫理的には未知数、感情的には一部損害あったんじゃねってのが正確?違法ダウンロードが刑罰化されることについてd.hatena.ne.jp/sophizm/201204…
— asano masaruさん (@sarustar) 4月 19, 2012
また、ブコメでも屁理屈だという指摘をいただいた。確かに損害概念については端折って書いているため、言葉足らずな側面があるだろうことは予想していた。文章の長さと取っ付きやすさのため、ということでご容赦願いたい。
そこで今回はこの点について考えを書いてみたい。学問的な通説や実務的な価値観とは異なる場合もあるかと思いますが、一私感なので、ご指摘いただけるとありがたいです。
ダウンロードが2年前に違法化される前は、損害ではなかった。このことについて、以下の二点を挙げる。
1,損害は法定概念であること
著作権侵害に対して損害の賠償を求められる根拠は何か。これは端的に民法不法行為に基づく損害賠償請求だ。具体的には民法709条に基づくもの*1。
故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
民事的な責任として、賠償請求されうる損害とは709条に明らかなように「他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した」ことによる損害だ。
前回書いたとおり、2年前に改正されて違法化される前は、私的なダウンロードは合法だった。それは著作権法30条*2によって著作権が制限されていたことに根拠がある。そのため、私的なダウンロードをされることは「他人の権利」も「法律上保護された利益」も侵害していない。権利を制限し、法律上の保護を明示的に否定していた行為だったからだ。
とりあえず損害が法定概念であるという前提に立てば、違法じゃないなら損害も発生し得ない。
ただ、感覚的に違和感があるのは理解できる。ここで言っていることは、刑法が出来る前は人を殺しても殺人罪じゃなかった、という類のものだ。民法がなければ、人が死んでも損害はなかったと言えるのか、とも言える。さらに、考え方次第では、「他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した」かどうかは原因の問題であって、それの有無に関わらず「損害」というのは独立した概念ではないか、とも言える*3。
法的に損害はなく、経済的倫理的には未知数、感情的には一部損害あったんじゃね
というのは、おそらくそういう側面を指摘しているのではないかと思う。ただし、著作権に於いては、その側面を否定できるだけの根拠が本質的に備わっているはずだ。
つまり、著作権の財産性は何に由来するか、という点に。
2,無体財産権ということ
著作権は無体財産権だ。
「物体」として「存在」が法律の有無に関わらず明らかな「有体財産権」とは異なり、無体財産権は物体として存在が明確ではない。有体財産権は、人類がうまれて所有という概念が生まれたそのときから、土地はあり、物はあった。物が欠けたり、盗まれたり、亡くしたり、土地を奪われたりすれば、それは法律の有無に関わらず抽象的一般的な意味での「損害」として、歴然とそこにあったはずだ*4。
物に対する権利*5、特に分かりやすい所有権と対をなす概念としては「権利」というのがある。厳密には債権と呼ばれるが、契約上生じる権利だ。お金を貸したら返してもらう権利、働いたらお給料をもらう権利、などだ。これらも抽象的概念で物体としての存在が明らかではない。
しかし、著作権は「債権」ではなく前者の「物に対する権利」に類する地位を与えられている。
与えられている。
何によって与えられているか。著作権法だ。
著作物に対する権利は*6、著作権法という法律があって初めて生じるもので、著作権法が与えた権利だ。表現に法的に確とした財産的価値を与えているのは著作権法なのだ。
そこで、違法ダウンロードについて。私的なダウンロードが違法化される前は、著作権法はその行為を著作権者の法的に確とした財産的価値の埒外としていた。法律によって財産的価値が付与された著作物に対して、法律によって財産的価値が付与されていないものは、価値を侵害しようがない。当たり前のことだ。
合法ダウンロードに損害があったという主張は、それは俺のものじゃないし法律も俺のものじゃないって明言してるけど、でもやっぱり俺はそれが俺のものだと思うし気分的にもムカつくだろ常識的に考えて、って言ってるようなものなのよ*7。
著作権侵害を窃盗になぞらえるのは、ミスリードであり考えるチカラを奪う。物体であれば確かにそこにあるものだが、無体財産はそもそも確かにそこにあるかどうかも疑わしいということを忘れてはいけないと思う。
違法ダウンロードが刑罰化されることについて
著作権法の改正により、違法ダウンロードに刑事罰が適用される見通しが確定的になりつつあるようだ。
民主、自民、公明の3党は13日、違法にインターネットに配信されていると知っているのに音楽や映像などをダウンロードした場合に罰則を科す方針で大筋合意した。著作権保護の強化が狙い。政府が3月に国会に提出した著作権法改正案には盛り込んでいなかったが、3党で罰則を明記した同法案の修正案を近く議員立法で提出する。今国会で成立する見通し。
今日、刑罰化について意見を聞かれたので、各論として刑罰化は有り得べき道筋であるが総論としては文化の発展に寄与するという本来の目的に照らしてバランスを大いに欠いており反対、と答えた。しかし、各論についても有り得べき道筋だというのは違法ダウンロードが「違法である」からであって、私的複製の一部が違法化されたことについて個人的意見として納得できていないため、端的に言えば違法ダウンロード刑罰化には反対である。
以下、考えを書き綴っていく。
1,奪われた財産と権利 〜ダウンロード違法化(2010年)〜
私的なダウンロードが違法化されるということ。
かつて合法であったダウンロード行為が違法になるということはどういうことか。それはダウンロードが権利者にとって損害になるということだ。違法化前はそれは権利者にとって損害ですらなかった行為で、かつ原始的に規制されない自由な行為であるためユーザーにとって利益を得る行為でもなかった*1。
この点は重要で、ダウンロード違法化前の違法アップロード著作物のダウンロードは「合法」で「損害でない」のだ。仮に違法化以前の違法アップロード著作物のダウンロード数を違法ダウンロード数の推移として算入していたとすれば、そのデータは欺瞞である。損害はなかったのだ。
同時に、違法ダウンロードが著作権者の権利を侵害し続けていたというのはウソだ。損害を与え続けているというのもウソだ。ダウンロード違法化は、合法だったダウンロードを「権利侵害」にし、「損害」と法定させたから権利侵害であり損害になったのであり、違法化の前後を問わず本質的に権利を侵害し損害を与える行為だったわけではない。
ダウンロード行為の本質とはなんだったのか。
2,例外の例外の例外は例外の例外より強い理由が必要
著作権法は憲法上の「表現の自由」と密接な関係を有していることは言うまでもない。表現の自由は自由権の中でも中核的な権利の一つで、前国家的権利、つまり国家の有無に関わらず本質的に「自由だ」と言われている。著作権法は表現を制限している。歌を歌うことを禁止している。聞いた歌を楽譜に落とすことを禁止している。本を音読することを禁止している。絵を書き写すことを、文章を書き写すことを、その他もろもろの表現行為を一定のものに独占させて、それ以外のものが表現することを禁止している。それが著作権法。
もちろん、表現の自由は絶対不可侵ではない。だからこそ著作権法は存在し得るわけで、他人との利益の衝突やマクロなビジョンでの高度な政策的意図から表現の自由は規制を受ける。著作権法が表現の自由を規制できるのは、それが「著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与する」ことを目的としているからだ。
ダウンロード、つまり複製は、本来本質として自由である(基本)
表現の自由の例外としての著作権法によってダウンロードは不自由になった(例外)
私的な範囲での複製(ダウンロード)は自由だ(例外の例外)
私的なダウンロードでも違法なアップロードだと知っていたら自由ではない(例外の例外の例外)
例外は厳密でなければならない。本来自由な権利を害する規定だから。例外の例外は厳密である必要はない。本来自由な権利を取り戻す規定だから。例外の例外の例外は、「例外の例外」よりも「例外」よりも厳密に規定されなければならない。なぜなら一度規制されたものをあえて例外として外しているにも関わらず、さらにその例外として再度規制しようとするから。
ダウンロード違法化は厳密な検討がなされたのか。「著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与する」ための規制なのか。私は未だに甚だ疑問だ。ある権利者サイドの人はこう主張していたように記憶する。無断で、無料で、対価を払わずダウンロードするのは現実世界で言えば窃盗だ、泥棒だ、と。しかし違う。違法化前は、アップロードは窃盗で泥棒だがダウンロードは認められたものだ。大切な音楽を蔑ろにしている、という主張も聞かれた。倫理的にどうか、という問題提起だ。その問題提起は寝た子を起こす。人類の財産である文化を特定人に独占させるのは倫理的に許されて然るべきなのか、というドグマを。
3,たった2年
ダウンロード違法化が2010年施行だった。それからたった2年余り。当時、当分の間は刑罰化に踏み切ることはないと言って違法化を推し進めていた人たちが、その舌の根も乾かぬうちに刑罰化をかなり強引な方法で推し進めている。たった2年だ。2年目の違法ダウンロード数の詳細な集計も出ないタイミングで、実質1年の実績しか無いのにもかかわらず、刑罰化しなければ違法ダウンロードが抑止されないと言うのか。
繰り返す。2年余り前は違法ですらなかったのだ。2年余り前は損害すら発生していなかったのだ。
みんな、ダウンロードは悪いものであり続けたのにも関わらず未だにこんなにも野放しにされている、という口車に乗らされているが、ダウンロードが悪いものであり続けたのは2年余りでしかない。
ダウンロードは2年前に悪いものにされたのだ。
違法化は、ダウンロードが悪いものだったというお墨付きではない。
違法化の瞬間から悪いものになったというものだ。
悪いものだ!と言えば悪いものが減ると思っていたのだろうか。せっかくわざわざ作ってもらった「損害」はしっかり賠償して文化の発展に寄与するために取り返そうとしたのだろうか。ナントカマークはどうなった。
悪者退治はダレの仕事だ。
4,刑事罰の性質
それは被害者の仕事だ。
少し以前、「自衛隊は暴力装置」という言葉が問題になった。無知を披瀝して大臣叩きに躍起になってた人も少なからずいたが、国家とは暴力装置で最も恐るべきパワーの持ち主であることは間違いない。28000人以上の人間の自由を奪えるのも国家だし、人を殺せるのも国家だ*2。国家は最強の矛と最強の盾を持った存在で、しかも時々暴れる。暴れて困るのは国民で、民主主義であるが故に国家の飼い主は国民だ。飼い犬に手を噛まれないためには、飼い犬に必要な最低限のチカラのみを持たせるに限る。不精な飼い主が犬に新聞を取ってこさせるために、ドアを開ける用の爆弾を持たせる必要はない。
刑罰とは国家による暴力だ、武器だ。反抗不能の強制捜査を可能にし、なにもしていないと主張しても身体拘束を受ける余地を生む。そのため、国家による介在は最後の手段でなければならない。まずは当事者による解決(ア)、それでも無理なら国家による解決手段の提示(イ)、その上でどうしてもどうにもならないときに初めて国家による実力行使(ウ)がなされる*3。これが理想であり、基本であり、原則であり、例外はない。
刑法の謙抑性は、行使段階のみならず、当然制定段階でも発揮されるべきものだ。
まずは(ア)当事者による解決が図られるべきだ。ダウンロードに関して言えば、ダウンロードは違法ではないが、権利者を逼迫し、文化活動に支障を来す恐れがあるためにやめてほしい、といういわゆる「啓蒙活動」がこれに当たると思う。そして、これは確かにある特定業界では盛んになされていた。そこで芳しい成果を上げられなかったために(イ)国家による解決手段の提示、すなわちここではダウンロードの違法化がなされたものと考えて差し支えないと思う。そして、いま、(ウ)国家による実力行使が許容されようとしている。
(イ)が必要だったか、疑問に思うのは上記の通りだが、それよりも甚だ疑問なのは(イ)の成果が上がるようなことがしっかりとなされたのか、ちゃんの当事者である権利者が動いたのか、それでもどうしてもダメな状況まで追い詰められていたのか。この2年余り、どれだけの損害賠償事件を起こして(イ)のフレームを有効活用してきたのか。記憶に残るほど多くの民事裁判事件はなかったのではなかろうか。
なぜ、民事でなく刑事に頼ろうとするのか。
5,我が腹は傷めぬ
答えはきっと難しくない。訴訟費用のほうが多額にかかるからだ。ネットの向こうの実在の人物を探すことからしてお金がかかる。しかも、コピー技術が容易になって一般人でもコピーができるようになったため、著作権侵害は不当な利益を得ようとする業者から、一般人に広がった*4。賠償額がわずかであれば訴訟費用が賠償額以上になってただただ損するだけだ。賠償額が多額でもそれに見合う財産がなければただただ損するだけだ。
その点、刑事事件は気楽である。捜査費用も証拠保全の費用も訴訟係属の費用も全て税金が賄ってくれる。自分で探さなくてもネットの向こうの実在の人物も探してくれる。日がな一日釣り糸を垂らして釣れるか釣れないか食べれるか食べられないか分からないサカナを待つよりも、魚屋に行ったほうが脂の乗った美味しそうなサカナを買える。
もちろん、買うか買わないかは分からない。しかし、権利者が被害届を出すだけで自分たちでは煩わしく手間もお金も時間もかかる仕事を、しかも効果絶大な形で国が請け負ってくれるようになることは事実である*5。本来、負うべき負担者がそれを回避しようとしている。それはダウンロードが悪いことなのだから仕方のない事なのだ、ではない。それとこれとは話が別だ。
警察も検察も裁判所も、ごみ収集の公共サービスじゃないんです。
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著作権保護期間70年と「君が代」
著作権の保護期間が70年になるということ。
世界の平均寿命が68歳なので、著作権の寿命は平均的人生より長生きする。
著作権の保護期間が70年になるということ。
70年前になにがあったか。1941年、和暦で言うと昭和16年。東條英機が内閣総理大臣となり、東條内閣を組閣したのがこの年の10月。もちろん、戦争より前の話だ。ちなみに「君が代」に曲が付けられたのが明治維新後の明治13年(1880年)。
著作権の保護期間が70年だったら。
著作権の保護期間が70年だったら、君が代の著作権は、いつ切れていたのだろう。君が代の作曲者は林廣守*1と言われている。国旗及び国歌に関する法律に載っている譜面にも、林広守作曲と示されている。林廣守は1896年に亡くなっているので、1966年に君が代の著作権が切れる計算になろうか。東京オリンピックの2年後、特撮テレビドラマ『ウルトラQ』放映が開始された年でもある。
ところが、wikipediaによると君が世の曲は林廣守の単著ではなく、林廣守、奥好義、フランツ・エッケルトの共著、つまり共同著作物であったようだ。共同著作物の保護期間は、最後の著作者が亡くなってから70年ということになる。この3人の中で最も長命だったのは奥好義で1933年に亡くなっている。
1933年。
著作権の保護期間が70年だったら、君が代の著作権は2003年まで存続していた計算になる。2003年までは君が代を公衆で歌うことは著作権法第22条上演権を侵害していたかも・・・しれない。
もちろん、著作権法には権利制限の項目が用意されている。著作権法第38条第1項本文には次のように書かれている
公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもつてするかを問わず、著作物の提供又は提示につき受ける対価をいう。以下この条において同じ。)を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。
多くの国民にとって、国歌斉唱は営利を目的としないので上演権侵害にはならないだろう。しかし、一方で38条1項但書には、
ただし、当該上演、演奏、上映又は口述について実演家又は口述を行う者に対し報酬が支払われる場合は、この限りでない。
とあり、報酬を受け取って国歌を歌っていたアーティストなどは怪しいものだ。
著作権の保護期間が70年になるということは、明治の著作物が21世紀まで著作権が切れず利用が不自由に制限されるということだ。
ちなみに・・・。
著作権の保護期間が70年だったとしても、君が代は1999年以降、どのような使われ方をしようとも権利侵害とはなりえなくなった。なぜか。前述の国旗及び国歌に関する法律が制定され、君が代の楽譜が法令の一部となったからだ。著作権法は、権利の目的とならない著作物として法令を挙げている(13条1号)。そのため、君が代は1999年を以って著作権が存在しないことになったと考えられる。
もう一つ興味深いのは、君が代に著作権は1999年までは存在していたとして、法令が施行された途端にその著作権が消滅するのか否か。それは、遡及して消滅するのかその時点から以降消滅するのか。仮に消滅するとして、それは著作権という財産権の侵害にならないか。国歌を法定化することに公共の福祉目的が本当に存在するのか。気になるところだ。
*1:「林広守」と「林廣守」の揺らぎは出典その他の表記に由来します。
ジョン・ケージ「4分33秒」に原盤権は発生するか。
※屁理屈注意
ジョン・ケージの有名な作品で「4分33秒」というものがあります。このあまりにも有名な作品にも、他の音楽と同じように著作権法にいう、いわゆる「原盤権」が発生するのだろうか。
原盤権(げんばんけん)とは、一般に、音楽を録音、編集して完成した音源(いわゆる原盤、マスター音源)に対して発生する権利のこと。日本の著作権法では、「レコード製作者の権利」(第96条〜第97条の3)として規定されている。
原盤権 - Wikipedia - http://goo.gl/ZXtcI
レコード製作者の権利
(複製権)
第九十六条 レコード製作者は、そのレコードを複製する権利を専有する。
(送信可能化権)
第九十六条の二 レコード製作者は、そのレコードを送信可能化する権利を専有する。
原盤権のポイントは、録音されたものが「音楽」ないし「音楽の著作物」であることを必須の要件としていないことで、著作権法第2条第1項第5号によると、レコードとは「レコード 蓄音機用音盤、録音テープその他の物に音を固定したもの」のことを言うと定義されています。つまり、音楽でなくても音が固定されてさえいれば、鳥の鳴き声だろうが旦那のイビキだろうが<自粛>だろうが<--検閲削除-->だろうが、それは「レコード」ということになりそうです。
では、アメリカ出身の音楽家であるジョン・ミルトン・ケージ・ジュニアことジョン・ケージの作品「4分33秒」であってもそれを録音したものはレコードなのだから、レコード製作者は「原盤権」を持つのか?っていう。
まずは、自分で「4分33秒」を録音してみたので、ジョン・ケージの「4分33秒」がどんな作品かご存じない方は、下の動画を見てください。穴埋めのためなので、映像は関係ないです。
※このレコードの原盤権はレコード製作者であるsophizmに帰属します。本動画は原盤権を保持するレコード製作者sophizmが有する送信可能化の権利に基づきアップロードされたものです。なんつって。
ジョン・ケージが書いた楽譜は以下のようなものです。
第1楽章
休み
第2楽章
休み
第3楽章
休み
つまり、「4分33秒」とは4分33秒に渡る『無音の音楽』なのです。
原盤権の話に戻ります。レコードは音が固定された場合に生じるので、無音で構成される「4分33秒」は音が固定されたとは言えず、普通に考えれば原盤権は生じなさそうです。ところが、ウィキペディアによる「4分33秒」の説明によると、
この曲は、いわゆる「無」を聴くものというよりも、演奏会場内外のさまざまな雑音、すなわち、鳥の声、木々の揺れる音、会場のざわめきなどを聴くものとされている
とあり、「4分33秒」の録音物には必然的に鳥の声、木々の揺れる音、会場のざわめきなどが含まれることになるはず。つまり、無の音楽だけど、無音のレコードではない・・・・と。なので、ジョン・ケージの「4分33秒」に原盤権が生じても不思議ではない、と思うんです。
これだけで終わってしまうのも気持ちが悪いので、もう少しひねくれて考えてみようかと思います。仮に例えノイズであっても有音部分に原盤権が生じるとして、無音部分には原盤権が生じないのでしょうか。つまり有音部分と無音部分は分けて考えても良いのか、それとも有音部分を含む全体を一つの原盤権と考えるべきなのでしょうか。ごく僅かな一瞬の音と、膨大な無音部分で形成される録音に権利を与えてしまうのは感覚的に変だと思いますよね。例えば音楽のCD音源を使ったとして、それが最初から最後までではなく音源の一部を使った場合でも原盤権にひっかかる余地はあるはずです。もし、無音部分を含む全体を一つの原盤権とした場合、全くの無音部分をもって権利主張しうる余地を与えてしまう可能性があります(もちろん全く現実的ではありませんが)。では、有音部分に限って原盤権が生じ、それぞれの有音部分毎に原盤権があると考えるとどうか。この場合困るのは、ごくごく普通の音楽のほうではないでしょうか。いわゆる「ブレイク」は”演奏中、リズムやメロディが一時的に停止した空白部分のこと”で、例えば松任谷由実の「春よ、来い」で使われていたりするわりと一般的な技法だと思いますが、もし有音部分毎に原盤権を認めるとすると、ブレイクの前後で別の原盤権が発生するのか?という問題が生じてしまうんじゃないでしょうか。
もちろん、実際に裁判で無音部分を根拠に原盤権侵害を主張したとしても間違いなく負けるでしょう。ただ、想像を膨らませて楽しいのは、裁判所がどういった理由で主張を退けるか、ですよね。「原盤権が発生しない」なのか「原盤権は存在するが、主張できない」なのか「両音源の無音部分は同一ではない」なのか、それとももっと別の理由か・・・。