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@sophizm の上から涙目線

選択的夫婦別姓に賛成派の私が考える選択的夫婦別姓制度のデメリット

選択できるっていいですよね。

 

私は自分のことを自己決定権至上主義者だとおもっているので、自己決定の自由が担保されることは最も優先されるべき事項です。選択できるということはいいことだし*1、それは選択肢があることのみならずそれらを自由意思で選択できる状態が保障されていることもともに重要なことだとおもっています。

 

もちろん、これを他人に強要するものでないことも自己決定権を重視する立場からは当然帰結するところです。ですから、自己決定の重要さよりも「伝統的家族観」とやらを重視して選択的であっても夫婦別姓を一切認めない立場があることも理解します。

 

そのうえで「選択できるっていいですよね」とおもう私が、でも選択できるって本当になんの利害も生まないの?と考えたときに、必ずしもそうではないのではないかな、とおもったことについて書きます。

 

選択できるっていいですよね。

という立場では、選択できるということは選択しないという立場も同じく保障しているのだから、既存の価値観を重視する立場を全く毀損しない、という理屈が聞かれます。基本的には私もそうおもいます。夫婦別姓が選択的だということは、同姓を「伝統的家族観」とやらを重視する立場にあっては別姓を強いられることなく引き続き同姓を維持できるわけですから、同姓を重視する立場と別姓を希求する立場の双方が等しくなんら譲歩することなくこれを実現できるはずです。

 

でも、本当に選択できるときとできないとき、状況は変わらないんでしょうかね。

 

「選択」というのは強者の理屈かもしれません。選ぶという行為にはエネルギーが要ります。必要がない限り選択という積極的な行為には出たくないという人もいるでしょう。漫然とできていたことも「選択肢」が出現することによって私たちは必然的に「選択」を強いられます。私は、そこに思慮を持ってもいいのではないかな、と最近おもうのです。

 

選択的夫婦別姓制度は別姓を強いません。同姓も強いません。しかし選択を強います。選択は軋轢をうむことが往々にしてあります。既存の価値観に流されるままにしておけば、”普通”は婚姻により女性が男性の姓を名乗ることになるのでしょう。もちろん既存の価値観でも女性の姓を男性が名乗ることも「選択」できます。その場合、私たちはなんの理由もなくそれを選択できるはずです。しかし、残念ながら女性の姓を男性が名乗る「理由」がなければいけないような、そういう空気があるのもまた現実なのではないでしょうか。

 

そのような”普通”を前提に生きている場合、選択肢がさらに増えることは困難な事態なのかもしれないです。制度が”普通”の価値観を揺るがさなければなんのひっかかりもなく滞りもなく女性が男性の姓を名乗れば済むと考えていた人たちでさえ、制度が”普通”の価値観を揺るがすがためにあえて同姓を選ぶ理由を用意しなければならなくなるかもしれないからです。センシティブな家族間の距離感に新たに姓選択という地雷を持ち込むことになるとすれば、それはやはり選択式の「デメリット」なのではないかと、私はそうおもいます。

 

そんな些細なこと、とおもうひともいるでしょう。実際私もそうおもいます。しかし同時にやはり「選択」というのは強者の理屈かもしれないという危惧もあたまの片すみにもっています。

 

締めに入ります。夫婦別姓の問題で選択式が選択を強いることになるというデメリットについて言及したものを読んだ記憶がなかったのですが、選択的夫婦別姓制度が同姓を望むひとたちにとってデメリットがないというのは違うのではないかな、とそうおもってます。デメリットがないわけではないだろう、と。しかし(もちろん)私はそのデメリットをして選択的夫婦別姓制度を否定する理屈はないと判断しています。それはあくまで過渡的なデメリットにすぎないですし、現実的に別姓利用の必要性に直面しているひとたちが現に強いられているデメリットに比べれば芥みたいなものにみえます。

 

確かにデメリットはありますね、でも現にあるデメリットを解消するのも必要なことですよね、どちらのデメリットが甘受されるべきものなのか、みたいなところから議論ができるといいですね。

 

以上です。

*1:信仰に近いかもしれませんが